3P 10版                    2004年(平成16年)5月1日(米輔日)
    いよいよ上方落語界、念願の天満天神繁昌亭が、 今月着工になります。この繁昌亭、そもそもは現三枝会長が、故六代目松鶴師匠が三十年も前に大阪、中央区の島之内教会で始められた定席島之内寄席の様な、活気のある定席を作りたいと言うところから始まりました。初期の島之内寄席、私も建て込み等にも参加しておりましたが、なんせ三十年も 前のことになりますので、記憶もあいまいに成り掛け ておりました。そこで知人の豊田クミコさんが、めずらしい島之内寄席の資料をお持ちなので、ここに協力をして提供して頂くことになりました。これを拝見すると、私もその頃の事が、とても懐かしく思い出され ます。


 

発行人
桂 米輔
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島之内寄席の噺
【2005年11月】

 

毎月1回、ワッハホールで開催されている島之内寄席は、昭和47年に東心斎橋にある島之内教会でスタートしました。もう30年以上も続いていることになります。島之内寄席の立ち上げには、ちょっとした思いが込められていたようです。当時の思い出を、教会の西原牧師にお聞きしたものを紹介しようと思います。

Q.落語協会の方が落語会をやりたいとお願いに来はったのですか?
西原.始まりはね、私のほうからお願いに行ったのです。 1968年6月に島之内小劇場という新劇のための教会劇場を作ったのです。1961年にアメリカへアメリカの教会が社会のためにどのような働きをするのかというのを学びに行って、一年間あちらこちらのプログラムに参加したのですが、そのときにニューヨークのワシントンスクエアにあるジャドソン記念教会の、有名な詩人劇場というのに出会ったのです。その教会の礼拝場では、芝居やダンス、モダンダンスやジャズ音楽など、いろいろなことをしていました。ワシントンスクエアはグリニッジビレッジにあるのですが、そのグリニッジビレッジというのが、昔、今でも芸術家の卵の溜まり場。そういう町の教会だから、広場の中の教会だから、その芸術家のための教会にしましょうと。大都会に必要な文化活動。大都会の人間は心が枯れてしまいがち。豊かになれるように文化活動が必要です。そういう場所を提供しようと、その教会は教会劇場をしていたのです。それを見たのです。
その後、私は1967年からこの教会の牧師となり、この教会の一階の部屋を稽古場として借りていた、劇団プロメテに出会いました。その指導者であった岡村さん夫婦に、教会劇場を始める事ができないだろうか、と相談しました。「それはいい。大都市の真ん中の教会だから、都会の都市のために必要な場所を文化活動のために提供しよう」教会員みんなとも相談して始まったのが"島之内小劇場"です。 その当時、劇団プロメテは、年に四つのお芝居を作って、四回の公演をしていました。たまには新劇ではなく、上方文化の宝物である上方落語を鑑賞する会をやってみてはどうか。当時、岡村さんが松竹芸能の研究所の講師をしていたこともあって、松鶴師匠のところへ相談に行ったのです。そのときは、ひと月だけやってもらうつもりだった。芝居の代わりに。そしたら松鶴師匠が、「そういうところがあるんやったら、毎月させや」と言うのです。しかも、昔の寄席は上席、中席、下席、つまり上旬、中旬、下旬の十日間づつだったらしい。それで、そういうところがあるんやったら毎月十日間続けてさせて欲しいと。それは勘弁してほしい。毎月はいいですね。ぜひそれはやりましょう。しかし、畳を入れようと思ったら、教会のベンチを全部他の部屋へ担ぎ出さないといけない。教会では日曜日に礼拝をします。十日間続けてだと、土曜日が終わったら日曜日にかけて部屋の形を元に戻して、月曜日にまた準備しないといけない。だから、それは勘弁してほしい。五日間だけで勘弁してほしい、ということで始まったのです。 だから、最初お願いに行ったのはこちらから。元はね、モデルがあるんだよ、ここで芝居をやっていたのも。 上方落語を鑑賞する会…お芝居の代わりに落語を鑑賞したい、そういうプログラムを一回やろうとじゃないか、と言い出したのが木津川計さん。木津川さんが中心になってやっていた上方落語を鑑賞する会というのがあった。上方芸能という雑誌を出していた上方落語を鑑賞する会だったと思うけど、北御堂、南御堂どっちかの御堂さんでやっていた。そういう仕事をしていらっしゃるというのがあったから、それがアイデアのもとです。 そして、小劇場のほうも当時、そういう場所がないということを私は知らなかった。我々が見た芝居というのは、大きな関連ホールとか、比較的小さいところでリサイタルホール。そういうところで芝居をやっていた。だからずいぶん広いホールで、隅っこまでセリフが通るように、それを一生懸命訓練するのが役者だと勝手に思い込んでいた。ところが、そうじゃないんだ。本当は、三百、四百人くらいが入るホールがいいんだ。せいぜい五百というところ。そういうところがなかった。そこで、ここの教会で始めたとき、大阪中の芝居の関係者、お客さん、新聞社もびっくりしていた。一味違った空間に。同様に落語に関しても全く素人であったから、当時の上方落語の世界がとういう事情であったか全く知らなかった。それで、結果的にそういう場所が与えられたということで非常に喜びはったんだな。松鶴さんはじめ皆さん。まあ、そういう訳で始まったんです。

Q.寄席はどんな雰囲気だったんですか?
西原.満員だったよ。もう、きっしり。とにかく大変だった。たくさん入って。設営は落語協会の方がやってはった。入口は赤提灯ぶら下げて。松鶴さんが下足番になって、入口で仕切ってはった。下足札作って。若い連中がワーッと椅子を運んで会場を作ったんだ。それをやっていたのが文珍さんとかべかこさん。鶴瓶さんはまだ学生で手伝っていた。べかこさんと鶴瓶さんがここが懐かしい、懐かしいと言いはってね。べかこさんは入門して間もなかったんだろうね。それで…そう、仁鶴さん。あの辺が中堅で、あと、三枝さんとか枝雀さん…当時は小米さんか。それに、師匠四人。松鶴さん。米朝さん。春団治さんと、小文枝さん。他に…露の五郎さんとか、講談の旭堂南陵さんも出てはった。それから、色物で中国人の真似をしている…ゼンジー北京さん。 (記録してある本を見ながら)最初はね、一日目は米朝師匠。二日目、小文枝師匠。円都さん、松鶴さんに春団治さん。それぞれ、5日間のトリをとりはった。ああ、べかこさんはトップのトップでやっているね。初日のトップ。二人目が文珍さん。月亭可朝さんもいるね。 下で仁鶴さんが練習してはったのを聞いたね。大きい声じゃなくて割と小さい声で練習してはった。ところが舞台へ上がったら大きい声で話しはってね。僕、落語のことよく知らなくて、上から見てたんだけど、松竹芸能の方がいろんなこと教えてくれはった。春団治さんの羽織の脱ぎ方がおもしろいとか…

(平成5年インタビュー)