3P 10版                    2004年(平成16年)5月1日(米輔日)
     
     
 発行人 : 桂米輔
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米輔とヨネスケさん

 
2004年5月1日
私が師匠の米朝に入門して、しばらくは芸名の無いまま、本名でカバン持ちをしておりました。ある時、師匠が「米団治の系統にはあんまり良え名前は少ないねんけど、お前の名前を四っつほど考えてる。米輔と米三(よねざ)と米若(よねじゃく)、それと小米喬や。米喬(藤本義一作「鬼の詩」の主人公馬喬のモデル)と言うのは、大きな名前やさかい前座には付けられへん、それで小米喬や」その時は、それで終わりましたが、一月ほどたったある稽古の時、師匠が「お前の名前、米輔に決めたさかい。ただ、東京の米丸ところにも、米助と言うのがおる。けど、東京は、前座から二つ目、二つ目から真打に昇進する度に、前座名から二つ目名、真打名と名前を変えるさかい、その内に向こうも名前を変えるやろうさかい、かまへんやろ。お前を米輔にする」と、字は違いますが東京に先輩の米助さんがいたはったんですが、大阪にも米輔が出来てしまいました。ところが師匠米朝の期待に反して、その世代は、後に大量真打が問題になる位の大人数で、二つ目名、真打名の良い名前にも限りがあって、前座名、二つ目名のまま、真打になる方も多く、ご承知のように米助さんもそのままの名前で真打になられました。米助と米輔。あちらは、あんまり間違われる事は無かったでしょうが、私の方は大きなトラブルこそありませんでしたが、小さいのはよくありました。ある時なんかは、東京のNHKから、あの方の出演料の確定申告用の源泉徴収票が、大阪の私の家へ送られて来た事もありました。これは当時所属しておりました事務所(東宝芸能関西)から、ていねいに東京のNHKに送り返してもらいましたが。間違えるNHKもNHKや!それなら私の方が、あっさり名前を変えればいいのですが、でも、私も30年以上名乗ってきた名前です。気にもいってますし、愛着もあります。もうこうなったら、あの方に一日も早く米丸を襲名していただく事を祈るばかりです。えっ、今の米丸さん、まだ生きてはる!うっ〜ん、これは困った!
 
2004年6月1日
この話を聞いた楽屋すずめ曰く「向こうもおんなじ事考えてたりして。
えっ 、米朝師匠、お元気やて。それに小米朝もいてる。ウーン困った」 名前と言えば、後から思い出しましたが、まだ見習いの頃、師匠のお供を して角座へ行った時、もう亡くなられました漫才のミス・ハワイ師匠に「大 きな名前つけてもらいや、大きなの名前を、米朝の弟子で米国ちゅうのはど うや、米国ちゅのは大きいで」。こんな事もございました。今なら楽屋のテロ に遭いそうですが。
ハワイ師匠には、色々お世話になりました。私が内弟子に入る時にも「あ んた良かったな。けど、内弟子というのは噺の稽古だけと違うで、辛抱する 事も習いに行くね。滅多に出来ん経験をさしてもらうんやさかい、がんばりや」 と、言うていただきましたな。青春の思い出です。
 
2004年7月1日
名前と言えば、私の師匠が三代目を名乗っている米朝と言う名前は、初代米団治(この人は初代文団治の弟子で実家の家業が米屋やったので米団治)の嫁さんの名が、お朝と言うたので、弟子に米朝と言う名前をつけたという、ずいぶん、安直なネイミング。仮に嫁さんの名がお米なら、米米(べべ)と言う噺家が出来てたりして。何ぼなんでもそんな名前はないやろうと、思われるかも知れませんが、でも、この時代に弟子に米歌子(べかこ)と言う名前を名乗らしていました。この初代の米朝さん、優れた噺家やったと見えて、後に二代目米団治を経て、三代目文団治(初代米団治は、二代目文団治を経て七代目文治になる)を襲名。二代目の米朝さんは三代目文団治の弟子で、先程、出ました米歌子から米之助、米朝を経て三代目米団治を襲名。米朝と言う名は、米団治系の出世名前になっています。その大事な名前を我が師匠は前座から名乗っています。将来を嘱望されてたと言う事もありますが、そこには師匠米朝の早トチリもありました。四代目米団治が「いずれ先で、君に米朝と言う名前を」と言われたのを、「いずれ先で」を聞き逃して、そのまま、それを回りに報告したために、四代目さんも、訂正しきれずに前座の者に米朝と名付けたと聞いています。その師匠も人間国宝になり、著作も教科書に採用されると言います。これで代々の米朝師匠方にも、大きな顔が出来ます。芸名が人物を選ぶのか、人物が芸名を大きくするのか。いずれにしても、その師匠に師事している、我々の非力には、恥じ入るばかりです。「えっ、我々?一緒にするな、それはあんただけや」とは、楽屋の声、すいません。
 
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