3P 10版                    2004年(平成16年)5月1日(米輔日)
    初めに・・・
先頃、友人の皆さんから「来年入門35年、節目の独演会をやったらどや、応援するさかい」と、暖かい励ましと、無責任なそそのかしをいただきました。そんなんで、おだてに乗せられその気になって、この度、その独演会のアピールの第一歩にと、このホームページを開く事となりました。始めから何もかもうまく出来ませんが、時間を掛けて、少しずつ充実させていきたいと思っております。そのために、皆様のご意見、ご希望、アドバイスは下記のメールアドレスへ、何でもどうぞ、お待ちしております。
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桂 米輔
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角座のことなど&今のお茶子さん
【2004年10月】

 
今年の初めに、大阪道頓堀の角座ビルの一角に演芸場B1角座がオープンしましたが、そのルーツになる角座の起こりは、江戸時代で、道頓堀の五座の櫓と称されました芝居小屋で、その中でも、これも数年前に閉館してしまいました、中座に次いで、高い格式を誇る芝居小屋でした。その角座が、戦後、寄席になり、演芸の角座として、昭和三十年代には全盛期を迎えました。戦後、寄席から手を引いた吉本興業が、また再び寄席に進出するようになったのは、この角座の盛況を見ての事やとも、言われております。私が師匠米朝に入門し、師匠のお供で角座へ出入りする様になった、昭和四十五年の頃の角座は、もう全盛期を過ぎておりましたが、劇場としての建物は、もちろん客席の桟敷席などは、取り除かれていたものの、まだ芝居小屋の落ち着いた雰囲気の残る、華やかなひのき舞台と言う感じの寄席でした。客席は、二階席もあり、立ち見を入れると、優に千人以上は、入るという大きな寄席でしたが、その年、開催されていた大阪万博の影響で、連日、大入りの盛況でした。

当時の出演者は、今から思えば綺羅星の如くで、かしまし娘、宮川左近ショウ、フラワーショー、ダイマル・ラケット、いとし・こいし、捨丸・春代、伸・ハワイ、太平トリオ、ワカサ・ひろし、柳次・柳太、ラッパ・日佐丸、…、浪曲では、京山幸枝若、春野百合子、…、落語では、松鶴、米朝、春団治、…、他にもまだまだ芸達者な方々が、たくさんいらっしゃいました。旅回りの漫才さんが、角座へ出ると、それだけで、旅回り、巡業の出演料が上がったと言うくらいの、権威はまだ残っておりました。見習いの私なんぞは、師匠に付いて楽屋入りをしても、身の置き所、居場所がないと言う状態で、師匠にも用事の無い時は、袖から舞台の芸をしっかり見ておけと、言われておりましたので、自然と足は、舞台袖に向いておりました。と、言うよりは、そこへ避難していたんですな。舞台袖には、まだその頃は、ちゃんと囃子場がございまして、常時、三味線の生の音色が流れておりました。当時の三味線の主任は、池中スエさんで、後に師匠米朝の独演会などで、ずっとご一緒さしていただくんですが、当時の私には、怒られてばっかりの怖いおっしょさんでした。でも「あんたらは舞台に出る人、私らは陰の人間」と言うて、見習いの私らにも、ケジメの時には、ちゃんと立ててくれはりました。口の悪い漫才さんは、舞台で「囃子場に、入ってる奴ら。あれ、うどんの玉と言いまんね」「なんでやねん」「そうかて、いつも簾(す)にくっ付いてるがな」と言うて、からかう人もいてました。ヘタリさん(鳴り物方)は、古い噺家さんで桂 文蝶さんと三増(桝)紋三郎さん。このお二人には、漫才全盛の中、同じ噺家やと言うので、色々とお世話になりました。お二人とも、もうすでに高齢でしたが、仕事と言うよりは、楽しみ、生き甲斐と言うような感じで毎日勤めておられました。昔の寄席や噺家の話、またある時は自分の自慢。たわいも無い話が多かったですが、面白かったです。

たわいもない話。「昔は、あんたらみたいな見習いの人を、どんぶり、どんぶりと言うたんでっせ」「どんぶりて、何ですか」「ぼうふらのことやがな。昔は皆、そない言うたんや。ぼうふら、これから、大きなって、一人前の蚊、噺カになります言うてな」
(注 イントネーションは丼とは違って、どは中音で、んが下がって、ぶがまた中音になって、りがまた下がる)

角座では、いろんな事を、いろんな方に教えてもらいました。鳴り物は、このお二人から手ほどきをしてもらいました。気楽にできるところでは、本番でも、鉦や太鼓を打たしてもらい、慣れるとお二人のどちらかに休憩してもらえるようにもなりました。ある時、私が中入りの休憩の時間に、角座の楽屋口の前の道で、柝頭(拍子木)の練習をしてると、古い漫才の師匠が、二階の楽屋から降りて来て、「チョンチョンと、柝が鳴ってるさかい、もう幕が開いたんかと思うて、慌てて降りて来たがな」と言われてしまいました。でも、その師匠の目は、ちょっとも怒っていませんでした。

春野百合子師匠の浪曲が好きで、師匠米朝と同じ出番の時には、いつも楽しみに、袖から聞かせていただいておりました。そして、節のお終いのところは、ご主人の打つ柝頭で、いつも締めくくりになります。が、ある時、その場所が来ても、舞台袖にご主人の姿が有りませんでした。でも、節の落としがそこまで来てる。私は、毎日聞かしていただいておりましたので、無いよりはましやろと、思いまして、生意気にも、急きょ代わりに柝を入れさせていただきました。すると、百合子師匠は怖い顔で、舞台から下りて来られたので、実はこうこうと、理由を説明しますと、見習いの私に、丁寧にお礼を言っていただきました。これがご縁で私の顔を覚えていただき、その後も、お目に掛かるといつもやさしく声を掛けていただきました。でもその時、毎日聞いていて、ご主人と同じような間で、柝を入れたつもりでしたが、下りてこられた時の百合子師匠のあの表情を思うと、私の入れた柝の間、音色は、ひどく不快で、やりにくかったんでしょう。芸事の奥行きと言うものを、思い知らされた出来事でした。それとここだけの話ですが、私の柝の打ち方は、百合子師匠のご主人のマネを、さしてもらっています。

「角座の大入り袋」 一日限りのホール落語会では、大入り袋が配られる事は、ちょいちょいございますが、十日公演の商業演芸場の場合は、十日間満員にならないといけないので、中々出される機会は稀ですが、先程、言いましたように、その頃の角座は、万博景気の影響で連日の盛況。私も一度だけ、師匠のおまけに角座の大入袋をいただいた事がありました。楽屋では、他に漫才の若いお付きのお弟子さんも、大入袋を貰っていました。その内の一人のお弟子さんが、大入袋を二つに折ってズボンのポケットに入れようとしました。それを見ていた平和ラッパ師匠がお弟子さんを殴りつけて「なんちゅう事をすんね。せっかく、めでとう大入りを祝うて、出した大入袋。そのめでたい袋を、折るとは、なんちゅうゲンの悪い事をさらすねん。この袋は、芸人には大事なもんなんや。大入袋は、折らずに千秋楽まで、楽屋の化粧前に大事に飾っておいて、その後は、中のお金は抜いて、袋は自宅で一年間、飾って後、また大入りになりますようにと祈って、火にかえすんや」と。これを目撃しなければ、私も同じく、数分後には、折ってポケットに入れていたでしょう。古い芸人さんの、大入袋に対する思い入れを感じました。因みに入っていた金額は、当時で五十円。裏方さんは、十円と聞きました。「大入り袋は金額やないね。大入りが出せると言うこの客席の状況と、ゲンを祝うた袋がありがたいねん」とは、私の師匠米朝の言葉でした。




「角座のお茶子さん」 今は、お茶子さんと言いますと舞台進行のお手伝いをしていただくのが、主な仕事ですが、戦前の寄席、法善寺の紅梅亭や、花月亭などがあった頃は、お茶子さんの仕事と言いますと、舞台の進行はもちろんですが、楽屋での出演者のお世話から、前へ回って、お客の案内や、ご贔屓のお客さんの雑用から、他の迷惑なお客の注意や退席までも、寄席全般の用事を幅広く受け持ったんやそうで。その頃の、お茶子さんの給金は薄給、もしくは無給に近く、その分は馴染みのお客や、楽屋の芸人からのご祝儀でまかなっていたんやそうです。寄席の席亭から言うと、ご祝儀の貰える場所を提供する、それがお茶子さんの寄席の給金やったんですな。
腕利きのお茶子さんになると、ご贔屓のお客さんを大勢持っていて、寄席が満員の時でも、お客さんに頼まれたら、上手に怒らさんようにして、他のお客を詰めさして、馴染みの客を客席に座らして、ご祝儀にしたんやそうです。私の入門した頃の、角座には、まだ法善寺の寄席を経験していたお茶子さんが、もちろんもうご高齢ではありましたが、何人もいらっしゃいました。そのお茶子さん達の中で、一番若かったのが小川よし子さんでした。若いと言うても、失礼ながら、その頃で四十代後半やなかったかと思います。十年くらい前までは、サンケイホールでの米朝独演会、一門会にはお茶子として、よく来ていただいておりましたので、覚えておられるお客さんも、いらっしゃるかと思います。舞台のお茶子さんは、ああ見えて、あれで中々むつかしいもので、お客さんの目障りにならないように、無駄なくキビキビと動いて、且つ目立たず、黒子のように、さりげなく動かないといけません。つまずいたり、物を落としたりして、客席の笑いを取ったりしたら、もうひんしゅく物です。小川よし子さんは、晩年でも、キビキビと動いて舞台を勤めておられました。米朝の落語の中に、よく「うちのおよし」とか「隣のおよっさん」という名前が出てまいりますが、これは角座で、師匠米朝が高座を勤めております時に、この小川よし子さんが、舞台進行のお茶子さんとして、よく舞台袖にいたので、そのお名前を拝借したものです。また同じく「池田はん」とか「池田屋はん」と言うのも出てまいりますが、これも先程出ました桂文蝶さんの本名でした。私は、このおよしさんに、角座の楽屋で、着物の畳み方を習いました。楽屋が空いてる時は、普通に広げて畳む。楽屋が混んでると、膝の上で畳むコツ。もっと混んでくると、立って畳むコツ。それと立って畳んだ着物は、帰ったら、必ず畳みなおす事。これだけお世話になっておりましたので、ある時、楽屋で、およっさんにお茶を入れてあげたら「あんたは、いずれ舞台に出る人なんやから、私らに二度とそんな事をしたらあきまへん」と、叱られてしまいました。そう言うと、舞台に出てる若手の芸人、どんなペイペイにでも、みなさん、師匠、師匠と呼んだはりましたな。

お茶と言いますと、角座ではありませんが、六代目松鶴師匠にも叱られた経験があります。ある楽屋で、松鶴師匠が座っておられたので、お茶を入れて差し出したんですが、松鶴師匠が一口飲んで「あけへんがな、ぬるい。おいしいお茶を入れようという気が無いさかい、そんな、まだ残ってる急須にお湯を注ぎ足すてな事すんね。同じお茶を入れてくれんねんやったら、あんたが飲んで美味しいと思うお茶をいれてんか」と。松鶴師匠、身に沁みてこたえました。

今は、いつも一緒に仕事をさしてもらうお茶子さんは、若い方ばかりなのですが、でもお茶子さんと言いますと、私は一番に思い出すのが、角座の楽屋の一隅に集まって、ワイワイと、身体が痛いの、亭主がどうのと陽気にしゃべっていた、ここは養老院か、病院の待合かと思わせた、戦前からの古いお茶子の皆さんのことです。そんなこんなで、私は今でも、お茶子さんと言いますと、年配の方と言うイメージを持ってしまいます、と言うよりそういう刷り込みになってしまっています。もうそろそろ、そのイメージを変えないといけません。

では、私が仕事で、よくご一緒さしてもらう機会の多い、現在のお茶子さんを、三人ご紹介さしてもらいます。


竹内智亜紀さん

上方落語彦八祭 お茶子コンテスト 元お茶子クィーン。
上方落語協会主催の会を中心に活躍中。
また趣味が高じて自宅を改装、寄席(ばんぶー亭)にしてしまう。
川柳二匹目のどぜうのメンバーでもある。
谷知亜紀さん

タレントさんで、関電SOSのCM等にも出演。
現在、NHKの落語会は、ずっとこの方です。
中村葉子さん

業界では、著名なジャズ・ピアニスト。
桂南光君も中村さんのピアノのファンです。
落語好きが高じて、お茶子さんまでしてしまう。
読売テレビ「平成紅梅亭」は、第一回から現在まで、お茶子さんは、ずっとこの方です。